ユハ・クリステンセンさん

元旦の朝日新聞に載ってた記事を今日の昼に読んで知った。アチェ問題の解決に尽力した民間人。検索したらMacromediaの人が引っかかったけど、別人ぽい。
ネットにはキャッシュだけ残ってた。「ユハ・クリステンセン」で検索したら見られるけど、思い切って全文転載。こんな泡沫日記に来ないとは思うけど、クレームというか削除命令来たら消します。

(平和をつくる:1)アチェ、仲介役は会社員 ユハ・クリステンセンさん
 紛争の絶えない世界だが、対立する当事者の仲介や衝突の予防などに力を尽くしている人もいる。それも政治家や外交官ではなく、普通の市民として。そんな人たちの活動を報告する。



アチェ監視団の任期終了の日、現地の担当者と握手し、別れを惜しむユハ・クリステンセンさん(右)=06年12月15日、インドネシア・バンダアチェで、中田徹撮影

●出張のたび交渉「失敗したらやり直すだけ」

 青空にはためくアチェ和平監視団の旗が掲揚台からゆっくりと降ろされた。先月15日午前8時すぎ。30年続いたアチェ紛争に幕を引いた05年8月の和平合意後、履行状況を監視してきた監視団はこの日任期を終えた。

 団長顧問のユハ・クリステンセン(48)は、法務人権相ハミド・アワルディンや独立派ゲリラ「自由アチェ運動」(GAM)幹部イルワンディ・ユスフと抱き合った。

 和平協議でハミドは政府団長を務め、イルワンディは交渉を裏方として支えた。双方を和平のテーブルにつかせ、交渉でも仲介役を務めたのが、クリステンセンだった。

 フィンランド出身。監視団に加わる前は、ビジネスの世界に身を置き、医療機器などの販売に携わってきた。周囲は親しみを込め、ユハと呼ぶ。

 政治家でも外交官でも、NGOの活動家でもないユハが、1万キロも離れたインドネシアの紛争解決をなぜ手助けできたのか――。きっかけは20年前にさかのぼる。

 「見知らぬ東洋の国に行ける」。28歳のユハはインドネシア言語学調査の研究員を募集しているのを知る。同じく旅好きの妻リイサ(47)と2人の子供を連れ、85年、東部マカッサルに移り住んだ。地元の人たちは家探しに手を貸し、子供の相手をしてくれた。「5年間の生活で、言葉だけでなく、文化や習慣、宗教など多くのことに触れた。何よりも相互の信頼が最も大切だということを学んだ」と振り返る。

 帰国後、東南アジア市場向けの企業コンサルタントを始める。だがインドネシアへの思いはいつも頭から離れなかった。

 東ティモールアチェから伝えられる紛争のニュースに心を痛めた。どうしたら解決できるのか。東南アジアに出張するたびに現地に足を延ばし、聞き取りを続けた。「仕事があるので、国連や赤十字など組織に属すことは考えず、個人で活動する道を選んだ」

 02年、東ティモールが独立。アチェも停戦にこぎ着ける。だが翌年5月に東京で開かれた和平交渉は決裂。アチェに事実上の戒厳令が敷かれた。

 ユハは失敗の理由を独自に分析した。〈仲介役がNGOで政治力が不足する一方、GAMの独立要求の議論も避けていた。この2点に留意すれば、和平交渉を再開させるのは可能だ――〉。

 6月には隣国スウェーデンに向かい、亡命していたGAM「首相」マリク・マフムドら最高幹部と初めて面会する。1時間半、パワーポイントで現地情勢の分析や提案などを、たたみかけるように話した。製品を売り込む要領だった。偶然その後、スウェーデン企業に職を得たため、本社出張を兼ね、訪問を重ねた。

 もう一方の当事者、インドネシア政府とのパイプづくりにも取りかかる。アンボンなどの宗教紛争の和平を仲介し、アチェにも関心のあった福祉担当調整相ユスフ・カラとの接触を考えた。

 「チャンスを見たら、すぐ行動に移すのがビジネスマン。失敗すればやり直すだけ。体面を重んじる外交官との違いだ」

 「地縁」が生きた。ユスフと、懐刀の副大臣ファリド・フサインは、自分のかつて住んだマカッサル出身。つてを頼り、12月にファリドと面会できた。実はファリドは、ユスフからGAMと秘密裏に接触するよう命じられたばかりだった。

 双方と面会を重ね、信頼を築いていく。転機は04年2月に訪れた。ファリドからGAMと会いたいと連絡があった。「機は熟した」と判断したユハは、ファリドとストックホルムに向かった。

 だがGAMは面会を拒否。メンツをつぶされたファリドは激怒する。インドネシア人、まして政府高官がメンツを非常に大切にすることは、ユハが最も分かっていた。

 時間をかけて作った積み木が一瞬のうちに崩れる思いだった。途方に暮れる中、友人を通じて一度だけ会ったことのあるフィンランド元大統領アハティサーリの顔が浮かんだ。もし和平協議が実現すれば、仲介役を頼もうと考えていた。

 友人に電話で「これから会えるように算段できないか」と頼み込んだ。憤然としたファリドとヘルシンキ行きの機内に乗り込む。祈るような気持ちだった。

 1時間後、空港に友人が待っていた。「元大統領が会ってくれるよ」

=文中敬称略

(藤谷健)

アチェの紛争解決はスマトラ沖地震とそれに伴う津波という天災が転機になった面があるとはいえ、和解の下地を作ったのは紛れも無く一人の人間だったわけで、何と言えばいいのか感歎で言葉が見つからない。今ノーベル平和賞を受けるのにこの人ほど相応しい人は見つからないんじゃないか。
続きは是非お近くの図書館で。アハティサーリ*1フィンランド大統領のインタビューも載ってるんで是非。GAMと政府側代表のインタビューも載ってたら完璧だったな。今じゃなくてもいいからその内読みたい。

*1:アティサーリとも